聖地になるということ

先月の北日本新聞に、那珂の慰霊碑だか神社の祭に艦これファンが玉串をおさめてお参りして行った話があり、舞台でも船でもキャラでもない物に真摯に宗教行事を行うファンの姿と、それをして聖地と呼ぶことについて、わりかし好意的に書かれていた。
 
物語の現場を「舞台」と呼ぶか「聖地」と呼ぶかは個々人の思惑が有るから、どちらにしても良い事だと思う。
 
先日ゆるゆりに出てきた温泉「ゆら湯ら」(微妙に似てるのが良い)のポスターが職員に撤去された。
盗難防止と保存の為の(おおかた額にでも入れるんだと思うが)一時的な事なんだけど、その理由が受付の人へ申し送り不十分だったんで、俺を含む一部のリピーターが気色ばんだ。
俺の理由は、夏休み前に夏休みアニメのポスターを剥がすボケナス観光業気の無さに対してなんだけど、他の人は説明を受けるまでは相当キていたそうな。
 
なぜか?
 
「非売品は価値も有るからね」
違う。それはそうだが本質じゃない。
あのポスターはゆるゆりの舞台を証明する数少ないアイコンだからだ。
風景でも良い。電車でも良い。でも、ヒロインたちが写っているアイコンが有るからこそファンは目印にして集まるんだ。ビートルズだろうとAKBだろうとミュージシャンのポスターから歌は流れない。でもファンは飾りたがる。あのポスターは紙切れでも告知ツールじゃなく、ファンの心の拠り所なんだ。
 
ここまで考えたところで、ヒロイン(半神)もアイコン(聖画)もアイドル(偶像)も、すべて宗教用語に由来することに気付いた。ここから先は考える時間が無いのでここまで。
物語の現場を「舞台」と呼ぶか「聖地」と呼ぶかは個々人の思惑が有るから、どちらにしても良い事だと思う。