ワーキングプアはデビルマンの夢を見るか

裏切り者の名を受けて 全てを捨てて闘う男
有名なデビルマンの主題歌だが、では不動明は一体何をどう捨てたんだろう。
文字通り「全て」を捨てて、闘うことは出来ない。アゴとマクラは生きていくうえで絶対必要だし、闘う目的と手段も必要だ。
単純に考えれば「人間として生きること」特に友人や恋人と過ごすことなんだろうけど、ではソレを実際に行動に起こすとすると実に恐ろしいことになる。
例えば、自分が大成する為にこれまでの交友関係を全て絶ったとしよう。それだけなら可能だけれど、そこには未来で取り戻す、あるいは新しい交友関係を築く希望がある。それは交友関係を「捨てた」んではなく「賭けた」ことになるから、この場合の「捨てて闘う」には当てはまらない。
では後顧の憂いなく交友関係をその場に「捨て」て、尚且つ「闘える」のか? 多分それは不可能だ。なぜなら一度捨てたものに憂いを感じないなら、それは「諦め」や「慣れ」であり気持ちの整理にしかならないから、闘う力にはなりえない。
もしも何かを犠牲にして「闘う」為の力にしたいなら、毎日、大事だが不要な物全てを捨て続けなければいけない。全て自分の意思で焼き捨てて、あれは二度と手に入らない、惜しいことをした、残念だ、という新鮮なネガティブ思考をそのまま今日一日のやる気につなげる。それが「全てを捨てて闘う」という本当の意味だ。
自分の大事な物を「捨てる」ためだけに毎日意識する。これを毎日行うなんて気違い沙汰とは思うが、武士道の「死ぬこと」や「シグルイ」とはこういうことなんだろう。




ということを、同業者のワーキングプア同士で莫迦話しているときに、ちょっと思った。