時をかける少女(ややネタバレ)

前回「判で押したような肯定的な意見が多い」と書いたが、無論否定派も存在する。世に完璧なものがない以上それは当然の話だが、中には「自分の知る限り、青春時代にこんな『恋愛に踏み出せないけど男と友情を持てる女子』などいない」と云うKOOLな意見も有り、それはそれで切ない話では、ある。
アニメ化で人気再燃するも、失われたモノも大きい「時をかける少女」 | 忍之閻魔帳
原田知世の大林版を以て時かけの完成を見た人には、細田版はこう見えると云う一例。
原作のラストは

和子はこの事件の全ての記憶を失いました。でも、ラベンダーの香りを嗅ぐ度に、何か素晴らしい事があったような気がするのでした。

というとても余韻の残る物だったのに対し、大林版は

和子はこの事件の全ての記憶を失いました。老夫婦は孫の事を「過去への執着」と割り切りました。時は流れ、和子は学者になりましたが、なぜ学者になったかも誰を待っているかも忘れていたのでした。

この脚本を書いたのが角川春樹氏なのか大林監督かは判らないが、これは悲恋だ。そして非常に残酷な終わり方だ。大人の俺が原作の余韻を楽しんでから映画を見ると「青春にオチを付けなくてもいいのに」と感じてしまう。ラストシーンの廊下も暗すぎて寂しくなるし、なにより吾郎(´・ω・)カワイソス 。
細田監督は「原作はSF、大林版は恋愛モノ、だから今回は青春モノにした」とコメントしているそうだが、そういう切り口だと「出会い・別れ・そして大人の階段を登る」という青春モノとして普遍的な(そして原作に近い)このラストなら、彼女の青春(彼女が人生を賭けて「タイムリープを開発する」のか「より良い未来を作る」のか「絵を守る」のかは判らないが、少なくともそういう夢と希望は青春を忘れたスレた大人には持てない)は夏と共に始まったばかりだし、そこに余韻を感じるのはそう不思議なことではない。
そして重要なことはアニメは「映画の続編」ではない事。ここに映画に魂を囚われている人たちは納得できないのだろうが、今更目標を見失って盲進する和子が出てきてもイタいだけでは?
それよりも全てを思い出し、全てを受け入れ、そして現在を生きているアニメ版和子のほうに魅力を感じるのは、俺が大林版(を含む角川映画)に悲恋よりも残酷さを見たからかもしれん。
ちなみに、この記事の中ごろに語られる

SFとしては詰めが甘く、ジュヴナイルとしても中途半端なこの作品が
絶賛されているのは、明朗闊達な主人公、紺野真琴のルックスや言動が
いわゆるアキバ系な方々にとってロイヤルストレートフラッシュ並に
ツボの揃った好物件だから、というのがかなり大きなウエイトを占めている気がする。
貞本義行のキャラクターにマニア殺しの台詞や仕草を多用すれば
アキバ系からの支持を集めることなど、赤子の手をひねるが如きであろう。

は、「ジュブナイル」と「アキバ系(=オタク?)」が俺の定義と全く違うようなのでコメント不能。「マニア殺しの台詞」についてはエントリ内で説明も無く、俺自身思い当たる節もない。
むしろ萌え絵師や、近年定義されたπ/があまり食い付いていない所から判断すれば、時かけにはその手の萌え要素は極めて希薄では。