メガネ

帰りの本屋で何冊かマンガを読んで思った事。
眼鏡属性を狙って当てに来てるキャラは大抵が屑。
かといって西川魯介田丸浩史は昔な絵なので、メタマンガとしては面白いんだけど萌えるものが少ないのが残念(西川さんのマンガ、しばらく見ないな〜)。
設定・特徴として眼鏡をかけているなら丸が二つ並んでいるだけでも構わないがね、萌え属性としての「メガネっ娘」たるもの、メガネに魂が篭っていないとはどういうことだ。
萌え文化黎明期、眼鏡っ娘とは「ビン底眼鏡を外すと格段に美人」と言うものだった。つまり眼鏡はオシャレやファッションではなく「いる時にいらない物 いらない時にいる物」と言う扱いだったのだ。
ソレから10余年。萌え市場の拡大、美少女ゲームの増加と共に「メガネっ子」という言葉は「眼鏡っ娘」になり、TVでは芸能人が普通にメガネ姿を見せオリジナルメガネをプロデュースし、実在のメガネもナス型一辺倒ではなく丸い物細い物縁なしハーフリムとバラエティ豊かになってきたというのに。
なんだこの貧弱なメガネは。
美少女キャラの縦長の瞳と流行りの細身なレンズが整合しないというのは分かる。
縁なしを表すのに、ふちの一部を描かず複数の弧線の集合でメガネとするのも分かる。
しかし、キャラの眼を意識するあまり、どれだけアップになってもブリッジもねじも描かれなかったり一本線での描写のみってのはドウヨ?!
コイツラのやっている事は、「眼鏡を外すと美人と分かる」を「眼鏡を外さなくても美人と分かる」ようにしただけ。キャラの顔を引き立たせる為眼鏡を犠牲にしているじゃないか。それはかつての(そして今も存在する)眼鏡不要論と全く同じスタンスだ。
違う。眼鏡っ娘】とは【眼鏡の似合う人】でなくてはいけない。
ロボ描きが面構成と内部メカを組み立てるように。メイド描きがフリルに命を懸けるように。眼鏡っ娘描きは少女に似合う眼鏡を描き切らねばならないのだ。
メイドやネコミミと違い、現実に数多く存在する「眼鏡っ娘」。そこからエッセンスを取り出して描かれるはずの「眼鏡っ娘」に眼鏡の魅力を伝える力がないとは実に情けない話ではないか。