春日部を待ちながら

1本しか道の無い砂漠の真ん中で、ウラジミールとエストラゴンの二人がゴドーを待っている。待って待ちぬくけれどゴドーはとうとうやってこないというだけの風変わりな作品で‥‥
(中略)
(1960年代に安保反対運動、学園闘争があり、)‥‥それが結局成功しなかったことから、日本の国民、特に知識人学生層に『変革』はどうせ待っても来はしないのだという気分が広がり、それがこの芝居に対する強い関心となりました。


     ――手塚治虫七色いんこ】「ゴドーを待ちながら」について より

オタクはどうして鳥坂センパイに憧れるのか?
鳥坂センパイの時代
ネット内にげんしけん究極超人あ〜るを比較する話が出てたんで、幾つか読んでみた。ちなみに俺が以前書いた奴はココ→【12/29】
さて。
当時のオタク、少なくとも俺は、鳥坂センパイに「頼れるカリスマがいてほしい」なんて願っていない。俺たちはあ〜るくんのようにまぬけで、鳥坂センパイのように無敵な、まぬけ時空の住民になりたかったんだよ。「僕のいる所が即ち世界」なんて禅問答ではなく、一定のベクトルが無いとたどり着けない境地に行きたかったんだ。
敵も別に必要ない。「生きることは戦うこと」という歌をを頭から信じていた*1。今も信じている。前進することが学生生活だった。今も前進したい。


だから、もし、今のオタクたちがげんしけんを読んで。
笹原エンドか斑目エンドを目指しつつ「咲ちゃんがいないとね」なーんて二重の他人任せ*2で華のオタクライフの構築を目論んでいるなら。本気でそう思っているなら。
それはオナニーだよ空から女の子が降ってくるのを待っているようなもんだ。夢見すぎと言うか虫が良すぎ。春日部が必要なら自分で春日部か高坂になれ。それが出来ないなら「あ〜る」と「げんしけん」を一緒に並べるな。
「あ〜る」と比較したいなら「るくるく」を持ってこい。

もしこの意見に齟齬を感じるなら、それはこれが「あ〜る」読者の目線で「げんしけん」を切っているから。今の世代が鳥坂を暴君に見るように、俺にはげんしけんは楽屋落ちとヘタレに見える。
まぁ若者事情には疎いんで、ひょっとしたら昨今のオタクライフはボタモチ降り放題なのかもしれん。だとしたら今日の日記はジジイの戯言なんだろうなぁ。

*1:念のために言っておくが「戦うこと」とは「敵を殺す事」じゃない。「逆境を乗り越える事」だ。

*2:「オタクはオタクをやめられない」から『一般人・春日部咲』にはなれない。そして『オタクと対峙できるスーパー一般人・春日部咲』が現れる条件は『スーパースター・高坂が味方にいる事』!